西宮神社正月行事 開門神事福男選び

西宮神社 開門神事福男選び

鎌倉時代の文献にも見られる「忌籠(いごもり)の風習により、1月9日の深夜12時、境内のすべての門が閉じられます。10日午前4時の「十日戎大祭」を終え、忌籠の明ける午前6時、大太鼓の音を合図に表大門(赤門)が開かれると、待ち構えた約千人の参拝者が230m先の本殿を目指し、猛ダッシュ。本殿に早く到着した順に一番から三番までがその年の福男として選ばれ、賞品が授けられます。

今では、閉門と同時に待機する徹夜組も見られますが、もとは各家の門松を逆さまにして、門戸を厳重に閉じて静かに夜の明蹴るのを待ち、早朝参拝をしていたようです。門前の本町筋は、戦前までは旅館が軒を連ねる宿場町の面影を残しており、遠方からの参拝者の多くが早朝の参拝に備え、宿泊していました。境内では、東京相撲の三日場所が開催され、旦那衆などは、縁起を担いで相撲取りに祝儀を出して競わせたりしていたといいます。

明治7年に開通した大阪神戸間の省線(現在のJR)西ノ宮駅に続き、明治38年に阪神電車の戎駅が設けられると、遠方からの参拝者も増え始め、大正9年に開通した阪急電車が十日えびすの3日間、神社近くに臨時駅を設けたり、運賃の割引など、交通機関の参拝者誘客合戦が加熱するに従い、門前に待機する者も多くなってきたようです。

開門と同時に走り参りをするさまは、今とあまり変わりなかったようで、もっぱら一番乗りすることに焦点が当てられていたようです、今日のように福男として選ばれるようになったのには、次のようなエピソードがあります。

福男の誕生秘話

昭和13年に、過去16回一番乗りをしていたという西宮市内の材木店に勤める田中太一さんが、氷上郡春日六村の尾松新之助さんと同着になってしまった為、体力の限界を悟り、翌14年には同じ職場の健脚の持ち主、多司馬兄弟に後を託したところ、見事に弟の玖一君が一番、兄の園之介君が二番に、田中さんが三番になりました。これに世間が感動して福男と称えた為、翌15年から上位三人を福男として認定するようになったというものです。その年は、兄の園之助君が中支戦線に出征していた為、兄からの激励の軍信を内懐に秘めた玖一君が、田中さんの介添のもと、見事二年連続一番福を射止めた瞬間、思わず「兄さんやりましたよ」と感激の叫びをあげたと当時の大阪朝日新聞は報じています。

20年まで続いた福男選びは、終戦直前の空襲により社殿が全焼した為、翌年から中止、24年に南門が新設されたのを機に復活されましたが、開門時の参拝者約十名と、今日に比べると雲泥の寂しいものでした。

その後、年を追うごとに参拝者も増え、数々のドラマやハプニングも生まれてきました。32年からの四年連続一番福に続き、さらに二年連続二番福を獲得の村上精一さん。41年には、各地の祭礼で事故が多発した為、警察の指導により二年間中止されたものの、参拝者は走り続け、43年から東島義哲さんは、三年連続一番福になったのに続き、47年にも一番福を獲得、その時の二番・三番福には、伊藤徹・彰啓さん親子の福男。53年には、谷村柘士・和己・正典さんの三兄弟による福男の独占。50年代には、城崎郡の漁業関係者の福男も多くいました。60年には、門外からの熱気に押されて五分前にフライング開門。63年から一番福四連覇目前の本田勝一さんは、ゴール手前で惜しくも転倒、涙を飲みました。平成6年から続いている森本晋由さんと善斉健二さんのライバル同士の対決等々、時代を超えた熱気が伝わってくるようです。

社報「西宮えびす 平成10年新春号」

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